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「南三陸チーム」の青年に会った・その3

さて、この 続き。

と、そんな峯岸さんは、時には歌津地区の様々な困りごとについても色々なプロジェクトを立ち上げては実行してました。

この夏の節電対策で関西でも扇風機がよう売れたんですが、歌津でも扇風機がかなり不足してたようで、
峯岸さんは、各地から扇風機を集めては仮設住宅などに届ける、という活動(支援募集も含めて)などもしていた。
と、そうして「歌津、歌津」言うてる峯岸さんを見ていて、「なんでそこまで歌津歌津なんやろ?」と思うことも最初は正直ありました。
峯岸さんは東北出身というわけではなく横浜の青年で、「歌津にはこの震災がきっかけで初めて行った人」だけになおさら。
今回はもうかなりの広範囲に渡って被害を受けたんで、困ってることがたくさんあるのは歌津だけではないと思う。だが峯岸さんは、「歌津、歌津」。
でもね、少しずつでも確実に前進・深化していく峯岸さんの活動をずっと見てて、思ったんですよ。
やっぱ、「峯岸さんは、歌津、歌津。」で、いいんだなと。
なんでもそうですけど、「広く」やろうとすると「浅く」なってしまうじゃないですか。体は一人につきひとつで一日は24時間しかないので。
逆にそれが「浅く」で出来ることならば、それを「(その体で、その持ち時間で)出来るだけ、広く」やれればいいと思うんですけど、
「深く」やらないと出来ないことについては、「深く、ピンポイント」でやっていかんとやっぱそれは難しいんだ、と峯岸さんを見ていて思った。
そうして例えば、「俺はここ」、「自分はこっち」、と、分散してのピンポイントでそれをすることでそれぞれが「深く」取り組める。
だからそうして、「峯岸さんが、歌津」なら、私の後方支援についてもやっぱ、「私は、峯岸さん」で、やっていこうと。

余談だが、私はたまたまそうして峯岸さんという「ピンポイント」に出会うことが出来ましたが、
そのピンポイントが見つからない場合、「どこか名の通った大きな団体を支援しとこうか」って形になると思うんですね。
もちろんそうしたやり方もいいと思います。大きな団体は大きな支援を集めることが出来るので、個人で出来ない大きなことが出来る。
でもそうして大きな団体で多額の支援金義捐金を集めてはみたけど、「どこにどう分配するか?」で、かなり手間取って、
結局のところ、なかなか被災地・被災者一人ひとりの手には渡らなかった、という話もたくさん聞きました。
ならば、実際に現場で動けて、かつ迅速にそれを生かしてくれる個人や小規模組織を支援するのもひとつの手じゃないかなと私は思います。
中にはそういう思いを利用した詐欺(消えろゴミクズ)とかもあるみたいなんで、それは自分の目でよく見極めないといけないと思うが。

と、そんな峯岸さん、及び 「魚竜の湯」 については こちら をご覧ください。

震災からずっと無償でお風呂を提供してきた「魚竜の湯」は、8ヶ月経ったこれからまさに「お風呂屋さん」に進化するそうです。
それについては、ホームページの中でご本人が語ってはるので、是非読んでみてください。

そして私は「物資」を送ることはもうしていません。何故なら、もう歌津でも色んなお店が営業を再開してるみたいなんで。
ここでもし、例えばですが、「峯岸さんが風邪ひかはったようだ!」って知った私が「それっ!」と、うちの店で売ってる風邪薬を送ったなら、
そこ(歌津)で営業している「薬局・薬店の人」は、さて、どう思うか? 

私がその時「薬局・薬店の人」やったら、私はこう思いますわ。

「京都からわざわざ風邪薬送ってもらったの!?良かったですね、峯岸さん!健康が第一ですから早く治してくださいね!」

「・・・でもその風邪薬、もう全く同じものを、うちの店でも売ってるんですよね・・・(苦笑)」

って、私がその時「峯岸さん」やったら、私はこう思いますわ。


飲 め ま せ ん  こ の 風 邪 薬 !!!

熱40度あるけど 水を飲んでも吐きそうなぐらいしんどいけど、

なんかこれはもう、 飲 め ま せ ん !!!www 



私がしたいのは峯岸さんの応援・バックアップなのに、逆にそれは峯岸さんの足を引っ張ることになる。
私がそうして京都から送った薬は「なんか飲めないww」わ、歌津の薬局で「それあるのにww」同じものを買い直すこともできないわ、
そのことで困るのは誰ですか? 
それは、「熱40度あって水を飲んでも吐きそうなぐらいしんどい、風邪ひき峯岸さん」です。
そしてそのことでさらに困るのは誰ですか?
それは、「峯岸さんに早く風邪を治してもらって、復興のためにまたバリバリ働いてもらいたい被災地」です。

よって、私は峯岸さんに「物資」は送りつけないで、「現金」を送りつけていく。
あ、もちろん、
「今、歌津で○○がとても不足していて、困っているんですよ」
「ああ、それやったらこっち(関西)に過剰にありますよ?スーパーのビンゴの景品になってるぐらいですわw」
っていうことが出てきたら、手っ取り早くその物資そのものを調達することもあるかもしれんけど。

ただ私は、「億万長者の孫正義」ではないので、
「時給700円代(転職前)のパート暮らし、且つ、2人の子持ちの母子家庭のオカン」なので、
現金を直接送金するとなると、「ほんまにこんな額でも役に立つんだろうか…?」って、躊躇ってしまうとこもあったんですよ。
支援に感謝や見返りを求めるのが違うのと同じく、自分の家族(娘ら)の生活を犠牲にしてまでそれをするのもまた違うと思うんで。
と、そんな私の出来る「無理のない支援(余力)」といえば、ギリギリの人時(人件費)で店を廻してる中で
「りちさん、今日もうかなり忙しいから、あと1時間残ってください」って上司に言われた時の残業代、ぐらいのものなので、
それ(1時間残って)が、4~5回あっても正味の話、「3,000円ぽっち」ぐらいにしかならない。
でもその「これっぽっちの3,000円」は具体的に、「歌津でまあまあしばらく走れるガソリン代」になるんですって。
「だから、りっさん。峯岸さん、きっとほんとに助かってると思うよ」 っていうことを教えてくれたのが、

ここまで来て や~~~っと 出てきた、本題の「その青年」で。


あれはいつ頃だったかもう忘れてしまったんですけど、
そうして峯岸さんにちょいちょいツイッターで絡んでる(お話を伺っている)私をめざとく見つけたやつがおったんですよ。
何故そいつが私を見つけたかというと、その彼は歌津地区を含む南三陸を支援してるボランティアの青年で、
実際に峯岸さんと現地で一緒に活動することもあって、彼もまた峯岸さんとツイッターを相互フォローしていたので
峯岸さんのタイムライン(活動経過・報告など)を追うことで多分、峯岸さんと私のトーク(絡み)も見かけたんでしょうね、きっと。
で、そうした彼が私に絡んで(話しかけて)きてくれて、プロフィールを見たら南三陸を支援してる人だったので
「ああ、きっとこの人は峯岸さん繋がりで来たんだな」と思って、そうして私と彼は相互フォローすることになったんですよ。


だがそこからが悪夢の始まりだった。


結論から言うと、
峯岸さんファンクラブ会長(自称)であるわたくしは現在、おそらくその彼が「そう」言い出して、
さらには呼び寄せた(広めた)一部の「わるいやつら(某・南三陸ボランティアチーム)」から

「鉄平さん(峯岸さん)ストーカー」

という「ミドルネーム」を拝命しています。
確かに峯岸さんの活動について私がやってきたこと・やってることはまあまあストーカーに近いんだが、


「ストーカー」 とか 言うな、って!!!

いくら峯岸さんが王子様みたいな人でも、
さすがに 距離 を置かれるわ! 「距離」 を!!!




普通に考えてこんなことはもうありえないですよ。
懸命に支援活動をしているその人の後方支援をしている人間を「ストーカーよばわり」するとか。
気ぃ弱いやつやったらもうほんま、ちょっとした鬱病にもなりますよ???


もう一回あいつら全員一列に並べて、端から順番に頭しばいたらんとあきません。




てなわけで。


いわばその諸悪の根源とも言えるその青年=「大くん」が、大阪で用事があるので関西に行くというので
「ほな京都で新幹線降りろ!その日私は弟の家に泊まってるからおまえも来い!最寄り駅まで迎えに行くからww」
みたいな感じ(どんな感じ?いや、そんな感じw)で、大くんと会って、ちょっと飲んで、色々話して。

ええやつでした。ええやつなんはそれまでからわかってたけど、会って話してもほんまにええやつでした。

「顔面・竹野内」 というニックネームを、うちの弟らから名付けられていたが。
っていうか、そこはもう普通に「目元が竹野内豊によう似てるなー」でええやんけ!
「機関車トーマス」 みたいに言うたるなよ! だが弟ら「GJ」だwww


と、そうして宴もたけなわな中、
「顔面・竹野内」から「酒飲んで顔面赤い・竹野内」と化した大くんは、本来の用事を全うするために、京都から大阪に行きました。



記事、おわり。




ええっ!? おわり???
「あんなこと」も「こんなこと」もあったのにwww
しかもこの記事は僕がメインの「そのタイトル」なのにwww


っていう、大くんの心の叫びが聞こえてきそうですが、私がひとつだけ言いたいことは


おまえが私にしでかしたことを考えてみろ。



「ストーカー」 やぞ? 

おまえのせいで 私は完全に 「鉄平さんストーカー」 になってもうてるんやぞ?

そんなおまえを「記事のタイトル(看板)」にしてやっただけでも
「ありがとう」 と 感謝をしろ このクソボケwwww





大くん、また「こっち」にも来いよー。

私もいつか「そっち」にも行けるように、日々頑張るからな。

だが、私がそうしてようやくそこに行けるようになった頃には
「笹かま食いに来たん?もしくはわかめ?www 貴様に売る笹かまやわかめなどないわ!!昼に完売したわwww」
…っていうような話(ネタ)になることを目指して、これからもやっていこうな。

[「南三陸チーム」の青年に会った・その3]の続きを読む
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  1. 2011/11/30(水) 01:55:37|
  2. どんつき(ひと)

「南三陸チーム」の青年に会った・その2

さて  この 続きです。


話、詳しく戻るが、

「峯岸さんのお風呂屋さん」 こと、「魚竜の湯」 というのは、
東日本大震災の津波被災を著しく受けた「歌津地区」の避難所となっていた、歌津中学校の敷地内にあって。

いや、「あって」というか、「そこに作らはった」から、「そこ」に出来たんですが。
試行錯誤しはった水の動線やお湯を沸かす設備についても当時ツイッターで色々書いてはったんだが、
素人の私にはその辺の凄さはよくわからず、
「浴槽は、魚屋さんから業務用のめっちゃ大きな桶を貸していただきました!」
っていうのだけは理解した。っていうか、ほんま「そこから」のスタートやったからね、「魚竜の湯」は。

ちなみに「魚竜の湯」っていうネーミングについて、
「峯岸さんは、もしかして元ヤンなのか?」と思ったこともあったが(だって「竜」とか入ってるし)
ご本人の解説によると、「魚竜」っていう歌津ゆかりのそんな生物が、なんかいるんですって。
興味のある人はまた調べてみてください。

話戻って。

峯岸さんは毎日毎日本当に熱心に「歌津のお風呂屋さん=湯主」に尽力していました。
被災者だけでなく、ボランティアで来てくれた人たちにも分け隔てなく、全部無償でお風呂を提供していました。
「えっ?なんで無償でそれが出来るの?ポッと来た横浜の青年に?」って?
それは、魚竜の湯をひそかに応援する人たちからの支援金と、あと、「峯岸さんの自費」 で、それをやり続けていたからだ。


私、思ったんですよ。


これ、「そこ(被災地)でこの活動をしている峯岸さんを応援・支援する人」がいないと、いつか峯岸さんがコケてしまわないか?

だって一人で「このこと」をやってはるんですから。


工事やら何やらその都度手伝ってくれはる人はいはるみたいやけど、それは峯岸さんの人徳によるものやろけど、
この「峯岸さん自体」がコケてしまったら、もう「魚竜の湯」ごと、それはコケてまうんじゃないか?


被災地・被災者支援も大切やけど、


「それを支援してるその人の後方支援者も、これは必要やで!!!」 



よって、結論。


「峯岸さんファンクラブ」 を、私はここに結成する。

 目的 峯岸さんをコケさせない。
 方法 峯岸さんの後方支援。(臨機応変に)
 会長 りっさん

以上。





てか なんだこの決起集会wwwww

しかも、しかも!!!
出席者、 「会長」 ただひとり っていうwwwww 




とまあ、そうして勝手に「峯岸さんの支援」を始めた私は、その魚竜の湯の進化と共に、
「中古の洗濯機を数台いただいたので魚竜の湯で洗濯も出来るようになりました」と聞き知れば、洗濯槽のカビ取り洗剤を送りつけ、
「エコのこともあってそのモノを使っているので、もうなんせそこにたかるハエが多い」と聞き知れば、ハエ取り紙を送りつけ、
「歌津の夏は今クーラーどころか扇風機もないから部活に励む子どもらの熱中症が心配」と聞き知れば、熱中症対策飴を送りつけたりした。


もちろん全部、「峯岸さん宛て」に。

何故なら私は、
「(被災地でその活動をしている)峯岸さんのファンクラブの会長」ですから、
「峯岸さんのその今(現地での)お困りごと」には、それはもう直ちに動きますよ、と。



正直、だいぶ気持ち悪かったやろうな、と思いますわ。
「何この人???」 って、なってはったと思う、逆に峯岸さんにしたら。



話、かなり戻って。


私が何故そうして、そこまで「峯岸さん」という人間に魅入られていったかと言うと、


峯岸さんは、「誰も、責めない」んです。
峯岸さんは、「何も、責めない」んです。


震災直後から現場入りした峯岸さんは、もうほんま「色んなこと」をずっと見てきはったと思うんですよね。

「これが今直ちに必要なのに、それが国の、自治体の組織的に、結局ほとんど出来てないこと」も、
「とにかく悪者探しの追求糾弾をすることで自分の鬱積を晴らそうとする人もいること」も、
「失って初めてかけがえのない人だったと気づいて、そこから動けないでいる人がいること」も、
「おまえに何がわかるのか!?と誰にも心を開いてくれない人もいること」も、

もうほんま、ずっと「色んなこと」見てきてはったと思う。むしろ「色々」言いたいと思う。


でも、峯岸さんは 「一切」 それは言わなかったし、「今も」 それは言ってない。


逆にそこで軸がブレて、「なんか、その運動」に行った人も、中にはいたと思います。
って、そういう人は大概、そのステージをいんたーねっつに鞍替えしたと思います。
「自分戦ってる」アピールをしたいだけなら、労力とコストの低いそっちでやるのがラクでいいでしょうしね。


と、そうした世の中や現地の動きの「色々そうした中」でも、峯岸さんは一貫して、


「口を動かすよりも、手を動かしてきた人」で。

「言うてただけのやつ」が、結局 何にも結果出せてない中、
ずっと走り廻ってきた峯岸さんは、「結果」を、出してきたしね。






「魚竜の湯に、ついにシャワーも出来ましたー!」
「まだまだもっと、やりたいことできること、ニーズがあります」
「魚竜の湯を、歌津の憩いの場にしていきたい」
「支援から、やがては復興・自立へ」
 




絶対、コケさせへんし。



この人、ほんまに。





続く。
  1. 2011/11/22(火) 02:44:32|
  2. どんつき(ひと)

「南三陸チーム」の青年に会った・その1

さて。

先日、次女(もも)の学童のお祭りがありました。
学童に通う子どもと先生方と保護者らが屋台やゲームをして地域の方に来てもらう、というお祭りです。
私は今年度、保護者会の本部役員なんでバザーの責任者をしていました。

え、なに? 「りっさん、また役員やってんの?ww」 って?

そうです、 また やってるんです。

離婚して秋に東京から京都に帰ってきたその翌春からもう早速、長女の小学校のPTA本部役員。
しかもなんとそれがまさかの二年任期だったんでその翌年もまた、長女の小学校のPTA本部役員。
やっと任期終わった~と思ったらその翌年、次女の保育園の保護者会の本部役員。
もうやっと終わった~と思ったらその翌年、町内の地域委員(小中学生の子どもの世話係)。
もうほんまにやっと終わった~と思ったら翌年、次女の学童の保護者会の本部役員。←今ココ。役員関係通算、五年目。

って、これだけ聞くと、「りっさんは、役員ダイスキ人間なんだな(笑)」と思われるかもしれないが、
この中で私が立候補したものは ひとつも ありません。
全て、「逃げる余地のない圧力」によるもの あるいは、「今年は休めると思ったのに、くじ運悪ス」 によるものです。
でもまあ「どうしても嫌」ではないですけどね。めんどくさいこともあるけど、なんだかんだで人と絡むのは好きなんで。
ちなみに今年のその本部には、偶然ですが、小学校のツレの妹と高校のツレの嫁はんがいます。
一昨年の次女の保護者会本部には偶然、下の弟の元カノがいたし、去年の地域委員の相棒はこれまた偶然、小学校の同窓生でした。
地元おそるべしww
つーか、京都の人間ってほんま、あんま外(県外)に出ないよな。まあ就職先もそれなりにあるしかもしれんが。

余談だが、今年の地蔵盆で町内会長から
「これは町内会長からのお願いなんやけどさ来年度りちさん中学校の役員を持ってくれへんか?さ来年うちが地区ブロック長に当たるんや」
と言われた。


なにその またしても 「逃げる余地のない圧力」。
「これは町内会長からの~」 とか、そうした 「枕コトバ」。 




てなわけで、さて、今日の本題。


そのお祭りが夕方に終わって撤収してから、私と娘らは下の弟の家に泊まりで飲みに行きました。
私の合格祝いと転職祝い&私が勤め先を変わったら土日祝は基本的に出勤になるので(昼過ぎまでやけど)「週末泊まり」が難しくなることから、
同じ市内に住んでいながらちょっと距離があるのでなかなか会えない弟ら夫婦が「ほんま一回、泊まりでゆっくり遊びに来ぃや」と言ってくれて。
あと、近所に住んでる弟嫁の双子の姉一家も来てたんで、大人五人・子ども五人で「遊び(大人は飲み)」ました。
上の弟一家も来れたら良かったんですが、こいつもこいつで土日出勤の平日休みなんで都合がつかなかった。
お互いが自分の道を歩み出すと、「きょうだい」って、近くにいても、まあまあなかなか会えへんなるね。


話進んで。


そしてその翌日、私は「とある青年」をそこに巻き込みまして、昼間からちょっと飲みました。
その青年は普段東京に住んでるやつなんですが、用があって関西に来るって言うから「ほなおまえも来ぃや!w」ってな「いつもの感じ」で。

彼とは「ツイッターで相互フォローし合っているツイッター仲間」なんですが、「+まあまあ濃い繋がり」があるんですよ。
「違う場所にいても同じ目標を目指している、その同志」 っていう。

そのとある青年こと「大くん」と知り合うことになったのには、そのキーパーソンとなる「ある人」の存在が先にありました。
それは、「峯岸さん」という人で、その人のことも私はツイッターで知りました。もうほんまに「たまたま」ですが。



あれは東日本大震災が起きた二週間後ぐらいのことだったと思う。



東京千葉埼玉茨城横浜に従兄弟やツレがおる私はあの震災直後、それまで登録したもののなんやようわからんで放置してたツイッターをよく見てました。
テレビでは流れない(報道が被害の甚大な東北地方中心なんで)関東地方の被災状況も知りたかったんで、情報が欲しかったんですよ。
それまではリアルツレと好きな作家・芸人さんしかフォローしてなかったが、情報を出してくれる現地の(知らない)人を積極的にフォローして。

と、そうしてたら、どこで何がきっかけで目に止まったのかはもう思い出せないが、なんか横浜の青年(?)が
「もうじっとしてられないから、俺は被災地に行く!」って言ってるのを見かけて、
(えっ。ていうか横浜もあちこち被害あるんとちゃうの?)とか思いながら、直感的に私はその青年をその場でフォローしたんですね。
「この人はきっと、なんかある。なんか持ってる」って、思って。

と、それが、私がその横浜の青年=「峯岸さん」=後に「大くん」及び「南三陸チーム」と私を引き合わせた人、を知ることになったきっかけで。

当時、首都圏のあの「買いだめ買い占め騒動」よろしく、関西でも「プチ騒動」が起こってたんで、うちの店はドッタバタになっていて、
私は情報を得るだけでなく「私のやれるやり方」で、買いだめ買い占めお控えくださいプロモーションを自分のスペースでやっていた。
まあ、「私のやれるやり方」って「笑い」しかないんですけどww
そして、いいネタに恵まれて(ネタの全てが店で起きたことっていうオールドキュメントだったんで)さらにそれをおもしろく書けた時は、
フォロワーの多い作家さんに頼んで「そのネタ」を拡散してもらったりした。(バスコさん、内村宏幸さん、その節はありがとうございました)


と、こっちはこっちでそうこうしているうちにナント、それまで仕事休みに「通い」でボランティアをしていた峯岸さんが
「仕事辞めて、横浜から南三陸歌津に移り住む!俺はここでこの歌津で生きていく!」って言い出したんですよ。


峯岸さん、キタコレ。


っていうか、「歌津」 ってドコらへんです?



東北地方行ったことない京都人の私にしたら、南三陸っていうたら「わかめ」ぐらいの知識ぐらいしかないですし、
さらにその中の「歌津」とか地区名で聞いても、そこが「地図のいったいどの辺」なのか全く検討がつかなかった。
よって「知る」と、そこは津波の被害が著しく大きかった地域だった。

峯岸さんがそれまで何の仕事をしてたのか知らないが、「歌津で風呂屋をやる」と言って峯岸さんはそれに尽力していたので
「ああ、峯岸さんは設備屋さん(ボイラー技師=職人さん)なんだ。さすが熱いな」と私は思って、彼のその活動とビジョンをずっと見守っていたんだが、
だんだん、「ただ見守っているだけ」ではもう足らず、いつしか、峯岸さんに「コメント(リプライ)」を寄稿するようになり、
「辞めた会社から(? 経由で?←この辺もまたよく覚えてない)機材を調達できそうです」などの経過ツイートについて、いちいち
「良かったですね!!頑張ってくださいねずっと見守っていますから!」などというかなり気持ちの悪いエールを私は送り続け、
だがそれに対して峯岸さんはなにも気持ち悪がることなく
「いつも見守っていてくださってありがとうございます!今、自分に出来ることを精一杯頑張ります!」
とかいう、もうとてつもなく爽やかで清々しいコトバを返してくれていた。


王子様、キタコレ。



っていうか、「峯岸さんファンクラブ」 開設の、これは勢いです?



続く。

[「南三陸チーム」の青年に会った・その1]の続きを読む
  1. 2011/11/14(月) 02:19:13|
  2. どんつき(ひと)

歌下手ヒサコ・その2

さて。

一昨日、店頭にサイズがなくて注文してた長女の陸上用シューズを受け取りに行ったら、京都・河原町の新京極で佐藤健を見ました。

ババン! (ダウンタウンDX 無関係。) 

てか、私はその彼が「佐藤健」やとは思ってなかったんです。だってこんなとこ(京都の新京極)にいるはずがないので。
ただ、遠くからこっち向かって歩いてくる段階で、すでに、「なんかあの子(青年)気になるな~?オーラ」があったんですね。
あ、もちろんモデル歩きとかしてないですよ。普通に私服でぷらぷら歩いてたんやけど。「なんか」、気になる。
で、道行く知らん他人のことなんかどうでもいい私が珍しく、彼が近くまで来て、そのすれ違い様に顔見たら、「佐藤健」に激似だった。

三回、振り返りました。

本人では絶対ないやろけど、ほんまよう似てるな~。
つーか、あの子(青年)たぶん一般人じゃないな。役者か何か「魅せる仕事」をしてる子なんやろな~、と思った。

で、電車乗って帰ってくる途中にそのこと(佐藤健に激似の青年を三度見したwネタ)をツイッターでつぶやいて、
そしたら翌朝、「全然知らないどこかの佐藤健ファンさん」から、リプライ(返事)が来ていた。
「それきっと本人ですよ。昨日その繁華街の映画館でもいくつか目撃情報あるし、今、佐藤健くんは京都で撮影をしてるので」と。

「インターネット」 怖えええっっっwwwww

このご時勢でタレント活動をしてる人を、私は「しんどいやろなー」と思う。
昔よく言われていた「いわゆる有名税(←?)」どころの話じゃないぐらいの中で、彼ら彼女らはその仕事をやってるんやな~って思う。

もしかしたら、私もいつか、
「りっさんがどんつき~でなくガチで 笑わせんなボケwww ってツッコんでるのを聞いた!」とか、そんなん書かれるかもしれませんねw


ないよ。 



てな感じで、さて この 続き。


歌下手ヒサコは、自分が歌えるようになりたい歌を私に歌わせます。彼女いわく「あんたの歌を聞いて覚えるから」。
てか、「それ」が出来るなら歌手が歌ってるのを聞いて覚えればいいのに君に「それ」が出来ないから君は現状「こう」なってるわけで、
「それ」をそもそも出来ないやつが、「あんたの歌を聞いて覚えるから」とか、意味わからんわ眠たいこと言うな!ww
と言いたい気持ちをぐっとこらえ、私は歌下手ヒサコのリクエストに答えて、色々歌います。
すると、歌下手ヒサコはなんか調子に乗って、あれもこれもと次々に自分の課題曲を私に「歌え歌え」とせがんでくるんです。

だからもう、その「オカンの七回忌の法事後のカラオケ」で言うたったんです。だいぶ厳しめに、私はもう言うたったんです。

「いや、私が何曲でも歌うのはいいけどさ、聞いてるだけじゃなくてヒサコ姉ちゃんが自分で歌って練習をせんと」
「人が聴いてるからよう歌わん~じゃなくて、人に聴かせるように歌えるようにならんと、もうなんにも変わらへんって!」


言いながら、内心、「ちょっと、ここまで言うたらきついかな…?」 って思いもありました。
でも私がここで心を鬼にしないと「歌下手ヒサコ」は歌下手のままなんで、逆にそれは身内である私も一緒に背負うべき苦しみでもあるのです。
歌下手ヒサコはそんなん言われて傷ついてるかもわからんけど、そんなん言うてる私も歌下手ヒサコと一緒に今、傷ついてる。


だが。


歌下手ヒサコはもう信じられないことに、そこで、

「そこまで言うなら、歌おか~?」 

と、言ったんです。



なにその、まるで 「紅白のトリ」 気取りは。



もう なんっにも 伝わってない!!!



そんな私がひとつだけわかったことは、

歌下手ヒサコの歌下手は、「緊張経験あるなしも努力経験あるなしもなんら関係のない、ただの音痴」だ。

常日頃「自分は歌が下手」とか言いながらも、この場面で「そんなふうに出れる」っていうのは、
常日頃の「それ」は、逆に「謙遜(←???????)」であったのであり、
自分が「歌下手」とすらもきっと認めても気付いてもいない=「ほんまにただの音痴」だったのだ。



と、そうして、(自分の中で)満を持してマイクを握った歌下手ヒサコは、
私がそれまで笑いと歌で温めた店の空気を「鈍器のようなもの」でかち割り、さらに室内温度を「マイナス10℃ほど」下げ、
さっきまで拍手喝采・爆笑していた客の目と耳のやり場を困らせ、皆、モニターに流れる歌詞だけをただただ黙って見つめていた。
だがそんなことはお構いなしで、歌下手ヒサコは全部が全部音を外している状態の「しかも大音量」で悦に入って歌い続ける。
もうそのあまりのお聞き苦しさに、「お姉ちゃん、ちょっと一緒に歌おか」と、私は二番から「歌下手ヒサコの壊滅的悲惨歌」に途中参加した。
それをすることで、もしや、歌下手ヒサコが「自分の音が外れていること」に気付いて「私の音」に合わせてくるんじゃないかという願いを込めて。

曲は、「つぐない」でした。

ところが私の音に合わせてくるどころか、歌下手ヒサコは何故かもっと外れて「ないしは今、ハモろうとしてるの?」みたいなことになってきた。
それが「ハモろうとしてるのかな?」なら、まだ「耐えれる話」なんですが、だんだん「かん高いお経」みたいになってきた。


だから「法事」 は もうさっき 終わったから!!!
っていうか、 おまえが今 「このこと」 を つぐなえ!!!

「窓に当たるその陽」が西からか東からかすらわからんぐらい
もう 「ぐっちゃぐちゃなこと」 に なっとるわ!!!




「この怒りに任せて、歌下手ヒサコの歌をようつべにでも上げたろか?」とか思ったりもしました。
でもそれをしたところで、多分、「歌下手ヒサコ」は反省するどころか、逆に「喜ぶ」と思う。
何故ならそれは、「歌下手」の自覚がないから。

もう、ほんまになんとかしないといけません。「歌下手ヒサコ」のことは、もうほんまになんとかしないと。


数年後に、「オカンの十三回忌」があります・・・。

[歌下手ヒサコ・その2]の続きを読む
  1. 2011/09/29(木) 02:49:57|
  2. どんつき(ひと)

歌下手ヒサコ・その1

さて。

私の親戚に とんでもなく歌が下手な叔母さん がいまして。名前を「ヒサコ」と言います。

正確には、ヒサコ叔母さんは私の叔母さんではなく、私のオカン(故)の叔母さん(私の爺ちゃんの弟の嫁)なんですが。

オカンは六人兄弟姉妹の長男(私の爺ちゃん)と、六人姉妹兄弟の長女(私の婆ちゃん)の間に生まれた長女で長子なので、
オカンと末のほうの叔父叔母さんとは、10歳ぐらいしか歳が違いませんでした。よって、感覚的には、
「歳の離れた兄姉みたいな感じ」だったようで、オカンは死ぬまでそれら対象を「○○兄ちゃん」「○○姉ちゃん」と呼んでいた。
逆にいうと、「私や弟ら」と、「その対象の人ら」のほうが年齢差的にも、「叔父叔母と姪甥感覚」、なんですね。

だから、私ら(姉弟)の中では「その対象の人ら」はもうほぼ「叔父叔母感覚」なのだが、
その「ヒサコ叔母さん」におかれましては、オカンが死んだ後も私らが彼女を「おばちゃん」と呼ぶことを決して許さず、
「私はずっとそう呼ばれてたんやから、あんたらも私を ヒサコ姉ちゃん と呼べ!」という、「命令」 により、現在に至る。

と、そんな 「ヒサコ姉ちゃん」 は、先ほど言ったように とんでもなく歌が下手 なのにカラオケが大好きで、
法事で会うたび会うたび、私に、「なあ~このあとカラオケ行こうさ~カラオケ~」と、そうせがんでくるんです、「歌下手」のくせに。
そして私は、その「歌下手ヒサコ」の、そのカラオケのお誘いを断ることが出来ないんです。
それは何故なら、うちのオトンがそれらの法事を取り仕切っているからだ。

オカンはもともと2歳下の弟との二人姉弟やったんですけど、その弟が17歳の時にバイクの事故で亡くなってるんですね。
酔っ払い運転手の運転する大型トラックの信号無視でハイスピードで正面衝突され、その場で即死やったそうで。
と、そうしてオカンは一人娘となり、 オカンにストーカーまがいに惚れこんだオトン と結婚して、
息子を亡くしたショックからリウマチを発症して一気に2年で寝たきりになった母親(私の婆ちゃん)の介護と、その母親の代わりに、
祖父母(私の大爺ちゃん大婆ちゃん)の自宅介護も末期の半病院介護も、全部あの人らが2人でそれをやってきたんですね。
乳児幼児の子ども(私ら姉弟)を育てながらのオカンとオトンのそれは、もう並み大抵の苦労じゃなかったと思いますわ。
ピークの時で、家に介護老人二人(しかも一人は夜間徘徊する)と、乳幼児が三人いたんですから、ほんまいつ寝てたんか?と思う。

と、そうして最初に、婆ちゃんが死に、大爺大婆が死に、爺ちゃんが死に、そして最後にオカンが死んでからも、
オトンはずっと、自分が面倒見てきた嫁さん方(私の母方)のお墓の世話とその代々の法事・年会を今もなお勤めていて、
それについてオカン方の親戚連中は「ほんまはわしらがせんならんのに」と、オトンには多大なる感謝をしてはるようだが、
でも逆にそれを当然として継続しているオトン、その子ら(うちら姉弟)にしたら、「今日は来てくれてありがとうの立場」なわけです。
よって、歌下手ヒサコが「二次会でカラオケ行きたい」とか言うても、(来てもらってる側の)私はそれを無下に断れないのである。

でもまあ、私もオトンも歌は好きやしカラオケも好きなんで、付き合い半分ノリ半分で、法事二次会はいつもカラオケです。

ただ、「歌下手ヒサコの旦那のミツオ叔父ちゃん」が、カラオケ嫌いの「飲むだけ」の人なんで、カラオケボックスには絶対行きたがらない。

よって、「子連れで行っても大丈夫なオトン行き付けのスナック(カラオケ有)」に、法事二次会は毎回行くのですが、
すると当然、下町の小さなお店といえども他のお客さん(ほぼ常連やけど)がいたり、入って来たりもするわけで。

と、そうなると、「歌下手ヒサコ」は、さっきまであんなにカラオケカラオケ言うてたくせに、なんか急にもじもじするのである。

私「ヒサコ姉ちゃん、カラオケやで。歌いーや」
ヒサコ「よう歌わんわーこんなとこでー。他のお客さんも居てはるしー」
私「ワレとこのクソ旦那がカラオケボックスはいやや言うからここになるんやないか!!!www」
ミツオ叔父「お~い、聞こえてるぞー? 誰がクソ旦那やねん~?」
私「ねえほんま誰ですかねそんなん言うてんの?出てこいコラええ加減にせえよ!?しまいに張り倒すぞボケー!!」

店に居た客や、今さっき来た客が、どっと笑う。

ヒサコ「も~!みんなこっち見てはるやないのーよけい歌われへんなったわー」


 ↑ 「これ」。

もう 「ここ」 なんですよ、歌下手ヒサコの 「なんかあかんところ」 は。



プロの歌い手さんは「歌うこと」に対するベクトルがまた違うと思いますけど、素人の「カラオケうまい」は、要は場数なんです。
「人前でどんだけ歌ってきたか」、もっと言うと、「知らん人の前で、どんだけ歌ってきたか」。

歌下手ヒサコは「週一でカラオケ友達とカラオケボックスに行ってるのに全然上達しない」と嘆いていますが、
私に言わせると、「そんなもん当たり前じゃwww」なわけです。何故なら、

人が歌ってる時に誰もその歌をなまじっか聞いていないで各々が「歌本」をめくって次に自分が歌う歌を探している

というそんな中で、もう何十曲何百曲歌ってもそれはただの自己満足に過ぎないのです。緊張感が全く足りないのだ。


と、そんな偉そうに言う私は、特別に「歌がうまい」わけではないし、ちゃんとした歌のレッスンも受けてない。
ただ、「カラオケはうまい」。もっと言うと、「さも歌がうまいかのようにカラオケで歌うことが出来るやつ」なんです。
それは、「知らん人の前(カラオケ)で歌うことの場数を踏んできたことで自分が習得したこと」、なんです。
なんせ小学生の頃から、「歌(カラオケ)好きのオトン」によって、近所のスナックに連れられてましたからね。

「カラオケデビューは小学生の頃で、それはハチトラでの演歌でしたww」って、私のツレや同世代にでも、あんまりいないです。
大概、「高校生の頃にカラオケボックスがばんばん出来て、それが僕の私のカラオケデビュー」って感じです。
私が中学生になった頃ぐらいからスナック(飲み屋)がレーザーディスクになったけど当初は、「1曲200円」でした。
それは、「その数年後に世に出た最初のカラオケボックスのシステム制度」と、同じくして、なんかそうでした。
あ、平成生まれの読者さんは「りっさん今何言うてるかわからん話」やと思いますが、興味があったらググってみてください。


話戻って。


と、そんな「スナックのカラオケ」に、おニャン子クラブの「セーラー服を脱がさないで」なんぞ一切入ってません。
カラオケは「大人の遊び道具」でしたから、子ども向きには作られていなかった。


東京シティー は 風だらけ。 (ARB 無関係) 


と、そんな子どもがそこで生き抜くためには、「津軽海峡冬景色」を、もう歌うしかないわけです。
最初は酷いもんやったと思いますが、そうして知らない人に聞かれてる緊張感の中で歌うと「うまく歌えなかった時」の反省度が半端ない。
「今度はここで外さないようにしよう」と、音を取りながら意識しながら歌うようになるし、こぶし聞かせる真似事みたいなこともしたりする。
って、なってくる(場数踏む)と、そこにいる人(知らん人)らは、「おっ?なんやなんや?いけるやんこの子~」ってなってくる。
と、そうして注目されることで「次はもっとうまく歌わないと」ってなってきて、知らん(うまい)人の歌を聞いて「勉強」をする。
と、そうして勉強したこと(知らんうまい人が歌ってた知らん歌)をも、今度は自分が「見よう見まね」でやってみたりもする。

おかげさまで、就職して社会に出てから 「年配上司とのデュエット曲」 には、なんにも困りませんでした。
「昭和枯れすすきを完璧に歌える18歳の新人女子社員」は私だけだったので、まあまあ重宝もされました。



話だいぶ戻って、歌下手ヒサコ。


「もうほんまになんとかしないといけない、この歌下手ヒサコを。それは身内として」 


と、私は思い、オカンの七回忌の法事の二次会のカラオケの時、「歌下手ヒサコ」に、いよいよだいぶ厳しいことを言いました。



続く。
  1. 2011/09/27(火) 01:35:59|
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京都に生まれ京都で育ち、          放浪の末、京都に舞い戻った女

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