どんつきを右に曲がって左のかどっこ

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「笑い」においての「障害」について。

さて。

私がかねてより好きでリスペクトしたい人の一人に「乙武洋匡」という人がいるんですが、皆さんご存知でしょうか。
つーか、もう大概の人が知ってますよね。 そう、「五体不満足」の著者である、あの乙武さんです。
あの人は凄い。ほんまに凄いとしか言いようがない。
何故なら、彼はあんな障害を持って生まれてきたにも関わらず様々なことに挑戦し、その障害に負けずに生き生きと生きている。
逆に私は五体満足で生まれてきたのに、(本人いわく)五体不満足で生まれてきた乙武さんのその努力にはもう頭が上がらない。
私よりもっと生きることに困難な状況の乙武さんがそうして懸命に強く生きてはるんやから、私ももっと頑張らないと!


っていう類いのリスペクト、では、私はなくて。


私が乙武さんの何をリスペクトしてるかと言うと、それは乙武さんの生み出す「笑い」に、なんですね。

確かに、彼は見た目(先天性四肢切断)にもうインパクトがあるので、
なんか逆にそっちばっかり注目されがちやけど、あの人の「笑い」はおもろいです。
笑いのセンスあると思うわ~。しかもその「間」もいい。

私は残念ながら彼のそのネタにタイムリーに遭遇出来なかったんですが、
昔それはネットでも話題になって、今やもう伝説の「乙武語録ww」にもなってるようですが、
今と同じくその当時から、乙武さんは社会や福祉や教育のことをたくさん考え、動き、発信してはったそうで
そしてそれを聞いてて熱くなったんか「笑いのネタ振り」をしたんかはわからんが、なんか聞き手の一人が、
「(そんな素晴らしい考えを持っている)乙武さんに是非選挙に出てほしい!立ち上がれ日本(党)とかどうですか?」
と言ったそうで。
するとその発言に対して乙武さんは、


「立ち上がる足がない><」


と答えたそうで。



ワロタwwwww




「…りっさん。…そこで笑うとか…さすがに不謹慎やわ…」って思います?


そこでそうなる人に、私は逆に聞きたい。

「てか、なんでそこで引くの…?」


例えば、チビハゲデブブサイクが自分の「その特徴」で笑いを取りに行くと普通に笑うのに、
なんで手足のない乙武さんが自分の「その特徴」で笑いを取りに行くと同じように笑えないのか。
何故なら、それは彼が障害者だからだと思うんですよね。
でも、例えば眼鏡をかけている人(視力障害者)がそれをネタにすると、みんな普通に笑うじゃないですか。
いにしえのコントでの「(頭の上に眼鏡乗せてんの忘れて)メガネメガネ…」っていうあのギャグとかね。
では何故、手足のない障害者が同じくそれをネタにするとそこで笑いを謹んでしまうのか。一体何が違うのか。
そこにはおそらく「(手足がなくて)かわいそうだ」っていう気持ちになる(ある)からだと思うんですよ。
では何故そうした「手足のない人」に対しては、「(やたら)かわいそう」という気持ちが生まれるのか?

「何故なら、僕は、私は心が優しいからです。かわいそうな人を放ってはおけないのです(はあと)」



「自己満足」かwww一生言うてろwww



話戻って。

根本的な話として、手足がない障害=かわいそう、っていう気持ちになるのはそもそも
今の社会で生きる中で手足がない人らには「いろんな不便なこと」が物理的にあるからだ、と私は思うんですよ。
…っていうことを知っている・容易に想像できるからこそ、
「この人ら(そういう障害を持っている人)は、(不便だから)かわいそう」って思う、んだと私は思う。
だから、眼鏡やコンタクトやレーシックで概ね社会の生活を補える視力障害者には、その気持ちは生まれない。
でも、同じ視力障害でも盲目までいくと、それは「かわいそう」ってなると思う。
何故ならそれは「この社会で生活するのには、不便そうだ」と思うから。
近年、バリアフリーとかユニバーサルデザインとかがだいぶ浸透してきましたけど、
それでもやっぱり社会は健常者を中心に成されてるから、障害の内容によってはまだまだ不便なことがあると思います。


え、なんか急にどしたん?w
りっさん、障害者福祉に目覚めたん?www




いいえwてか、今日は「笑い」の話なんで…。



話戻って。



私が言いたいのは、「心のバリアフリーとはなんだぜ?」ってことなんですよ。



ええ言葉ですね~、「心のバリアフリー」。
でも、この言葉を聞いて真っ先に思い浮かぶのは多分、「障害者に優しくしよう」的な感じやと思うんですよね。
もっと言うたら、「優しく『してあげよう』」っていう。実際、それを推奨する人はそういうふうなニュアンスでそれを説きますが。

でも、そもそもバリアフリーっていうのは、「バリアがない(バリアを取っ払ってる)」ってことじゃないですか。
いわゆるバリアフリー設計とかでも、段差やらが極力無いフラットな状態になってますよね。
ほな、逆に「優しくしてあげよう」っていう、そこ(その思い)に段差はないんか?って私は思うんですよ。
してあげる人、と、してもらう人、っていう心の関係はほんまの意味でのフラットではないんちゃうの?と私は思うんですよ。

例えば、そうですねー……あ、うん、例えば、

人がすれ違うのがやっと、ぐらいの細い歩道があったとしますよね。
で、自分の前を歩いてる人が、なんかやたら歩くんが遅かったとします。
でも、今自分は急いでいると。急いでるから、ここまでずっと走ってきたんだと。
それは何故ならこの先のバス停に3分後に着くバスに乗りたいので。
さて、その時どうします?
多分ほとんどの人が、前歩いてる「歩くん遅いそいつ」を横から抜かしていくと思うんですよね。
でも、その前を歩いてるそのやたら遅い人が、「車椅子に乗ってる人」やったら、
さて、その時どうするのか?と。
同じようにそうして、前歩いてる「歩くん(進むん)遅いそいつ」を横から抜かして行けますか?と。
多分ほとんどの人が、自分がバス一本遅らせてでも「待つ(待ってあげよう)」と折れるか、
抜きたいけどなんか抜くに抜けないジレンマにイラつきながらも「待つ(待ってあげる)」と思うんですよ。
自分が急いでることにはもう全く変わりなくても、その相手が変われば、なんか話が変わってくるという。


てか、それのどこが「心のバリアフリー」やねん?
てかもう、逆にめちゃめちゃ「心のバリア」あるやんけwww



「私は今急いでるから、歩くん遅いあんたを抜かして行くわ!」っていうことを、
誰が相手であろうと出来ることがほんまの意味での「心のバリアフリー」やと私は思うんですね。
何故ならば、「そいつ」は歩くん遅いけど、「自分」は今急いでるんやから。
そしてもっと言うと、そうして
「俺は今急いでるから遅いおまえを抜かして行くで!」って抜かして行ったやつに対して、見てる周りのやつも
「なんなんあの人!?車椅子の人を横から抜かして行くとか、なんて心無い酷いやつなんや!」っていうふうにならない、
…って、そういうのが、ほんまの意味での「心のバリアフリー」が成り立ってる社会やと私は思うんですよね。

よって、「障害者が自分の障害使ってボケる笑いには笑えへん」って躊躇うのは、それと同じことなんちゃうか?と。
「ここで笑ったら(笑ってあげたら)かわいそう」とか、
「ここで笑ったら酷いやつと思われるかもしれん」みたいな、

なんかそんな「心のバリア」が自分の中にあるから、ニュートラルに笑えへんのとちゃうか?と。



話だいぶ戻って。



乙武さんは、相も変わらず快調に「五体不満足ギャグ」を飛ばしまくっています。
でも、「ここで果たして笑っていいのかどうか…。障害をネタにするのは不謹慎かと…」って戸惑う人も(まだ)多く、
そしてそんな人々に対して乙武さんは「考え方は人それぞれだから^^」みたいなことを飄々と言っている。
逆にそこで変に気ぃ使われて笑ってくれへん人がまだいることに、乙武さんは内心残念なんちゃうかと私は思う。
「自分は(まだこの人らの心の中では)障害者なんやなあ…」
っていうことを、そのネタがスベってまた改めて思い知らされる、みたいなね。 いや、わかりませんけど。


とまあそんな感じで。



「自分には手足がないこと」をネタにしてもええやん、と私は思うんですよね。
そして誰もがそれを笑える、そんな世の中になったらええのになあ、と私は思う。
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  1. 2011/03/01(火) 02:31:02|
  2. 思うこと(「笑い」)

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Author:りっさん

京都に生まれ京都で育ち、          放浪の末、京都に舞い戻った女

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